創業ストーリー
1894年(明治27年)〜
八幡村(現浜松市八幡町)生まれの羽田熊吉。人呼んで“八熊さ”が、鍛冶町の一画に農産物の仲介業を始めたのは明治27年のこと。しょうが、落花生、みかん、さつまいも、へちまなどを棒手ふり(天秤棒に商品を載せて、民家を売り歩く商い)に卸商いをする。その傍ら店の一画に陶磁器を並べ、道行く市民に売りはじめた。店の印は自分の愛称“八熊さ”の八の字を丸で囲んだものとした。これが現社名「丸八」の由来である。
この商いを支えたのが、河合よしである。三州西尾の武家の娘だが、明治維新で家が没落し、寺を頼って浜松にやってきたと伝えられている。なかなかの女傑であったという。家柄を自負していたためか、熊吉と結婚後も姓はそのままだった。そればかりか、熊吉の妹の子、つまり甥を養子に迎えながら、自分の生家の姓『河合』を継がせている。「すべてが大まかな昔のこと。そんなことも通ったんでしょう」と、現相談役宏氏は苦笑しながら説明してくれた。
養子となった卯吉は、天竜二俣の出である。よしは卯吉の嫁も、自分のめがねに叶った娘を配した。当時連尺町で盛名の高かった”山口屋菓子舗”の娘夏目きんであった。厳しい姑の期待に違わず、卯吉もきんもよく働いた。鍛冶町通り(当時は停車揚通り)に中州のように存在した南店の向かいに中店、さらに道路をはさんで北店を次々に開店していった。創業店舗の南店は建材などを扱うタイル部に、道の両側に入り口をもつ中店は一般小売り向けの店舗に、そして北店は卸し専門店にそれぞれ特化させ、昭和9年には資本金4万円の合資会社丸八陶器店として、今日の業容の基礎を築いた。
1953年(昭和28年)〜
三代日を継いだのは三男達夫。三菱商事に勤務していた弟巌も昭和17年に帰郷し、兄弟2人3脚での経営がスタートする。二人の性格はまるで正反対。兄達夫が謹厳実直であるのに対し、弟巌は酒脱で磊落(らいらく)、社交的であった。これがかえって良かったと見えて、戦争で全店を消失したもののその不運を克服して、戦後事業はめざましく拡大、充実していった。経営全般と建材、タイルなどの部門を達夫が担当し、巌は経理・財務とギフト事業部門を統括した。
1973年(昭和48年)〜
昭和48年には神田町に自社ビルと商品センターを建設し、本社機能と建材部門、食器卸部門が移った。3店あった鍛冶町の店舗は区画整理事業などにより北店1店に集約した。4代目となる現相談役宏氏は昭和62年に社長に就任、この厳しい時代を乗り切ってきた。「先達への感謝は忘れるつもりはありません。しかし、歴史が古いだけでは事業の先はありません。変化の激しい時代の動きに対応できる若々しい会社でありたいですね」と、事業のこれからを語っている。